氣の概念と周囲への影響

まず、私がいつも言うように《「氣」とは「魂」の「湯気」》です。

何かに勇敢に挑んでいる人を《「魂」を「燃やす」》と表現しますが、その時「人の魂」は確かに「熱を帯び」燃えている訳で、物が燃えるのと同様に「魂」が燃えれば、「熱気と湯気」は勢い良く、その人から「放たれます」。

《では「魂が燃える時」とは「どんな時」でしょうか?》

それは、その人にとっての「いざという時」「ここ一番の時」と言えます。皆さんの「魂」は「燃える」事によって「現象」を「起こそう」とし、その為に「影響力」を行使しようとします。

《その「影響力」とは「気迫と熱気」により成り立ちます》

「燃える」とは「燃やす」です。物が燃えれば「煮たり」「焼いたり」するのと同様に、周囲の物事に「変化、変質」をもたらします。「いざという時」「ここ一番という時」あらゆる「表に出る人」とは、その「影響力」を行使します。例えば「アーティスト」が舞台に上がり「コンサート」等で心を込めて「歌を歌う」。その「気迫と熱気」は「歌声」と共に「観客」に「伝わり」、「観客」はその「エネルギー」を浴びて「元気をもらいました!」と言うのですが、同じ事なのです。

「この世」の「氣」は「陰の氣」です。「普通の状態の人」の「放つ氣」も「陰の氣」です。それらは「水」に例えられます。「燃える魂」とは、その「水」の中に熱く「焼けた石」を投入する事と同じです。途端に「グツグツ」と「熱」は伝わり激しく「湯気」は発せられます。それが「影響力」であり「現象」です。

《その「熱」を相手の事も考えて「暖かい」程度に「セーブ」して、相手を包み込めば「心の暖かい人」と言われるのも当然の理屈ですよね。》

それは、本来「熱い人」が持っている、エネルギー的な「ゆとり」が、そんな事をも可能にしていると言えるのです。

「この世」の「氣」は「陰の氣」です。それらは「水」に例えられます。誰もが「この世」に降りてきて「陰の氣」の「空気を吸い」、「陰の氣」の「水や食べ物」を「摂取」しながら、やがて「陰の氣」にドップリと馴染んでいきます。

《よく「陰気な人」と言いますが、それは「この世」の「陰の氣」に酷く「馴染みきった人」を表します。それは「幼児」には無い「大人独特」の「冷めた心情」であり「どうせ」の一言で表されます。》

「大人」とは兎角「あらゆる出来事」を「想定の範囲内」に置こうとします。「これって、どうせアレでしょ?」という事で、何とか過去の「経験」の「理解の仕方」を代入しようとするのです。それは言い換えれば「感動」や「驚き」を含めて、極力「心を動かしたくない!」という「心理」がそうさせるのです。

それに対して「あの世」の「氣」は「陽の氣」です。

《「あの世」には「肉体も病気もお金」も在りません。「氣」は伝わる邪魔をする「肉体」が有りませんから、「直接」相手に伝わります。よって「嘘」は直ぐその場でバレます。「嘘偽りない世界」が「あの世」なのです。》

その「陽の氣」を「この世」において「人」が発せられる時とは「魂が燃える時」つまりは「本気の時」です。

人が「本気」になって、「何かの物事」を起こそうとすると、「魂が燃えて」周囲に向けて「熱」を発します。

《その場が仮に「冷めた場」だとしても、誰もが結局「熱い人」に集まり、「熱い人」に「従がおう」とするのもその為です。》

これらが「理解」して頂ければ、「氣塾」の「システム」も「理解」しやすくなります。

《最初の「段階」とは「陰の氣」である「水」を先ず沢山「得ましょう」とする段階です。これには「マスターヨーガ」が「最適、最短」となります。》

そして、その人が十分に「水=気量」を「獲得」出来たなら「次の段階」である「水を火にかける段階」に移行して、その人の「氣=水」を「熱湯」に「変えていきましょう!」という作業に移ります。

《その「陰の氣=水」を「火にかける技術」においては「武当派太極内丹法」が非常に「最適、最短」となるのです。》

「冷めたまま」では、あなたは何も「成し得ませんし」「何者にも成れない」でしょう。何より何一つ「楽しく無い」と思います。「やる気が無いとき」「何をしたら良いか分からないとき」、「陽の氣」を持つ事によって、自分が何になら「熱くなれるのか?」、その答えも「分かりやすくなる」のも「当然の結果」だと言えるのです。

《「氣」は「魂」の「湯気」》ではあります。

「魂が燃える人」の発する「熱」は、空間を伝わり、他の人達を「熱し」、自分も「頑張らねば」と元気付けるという「影響」を周囲の人に与えます。

《「氣」には「強さ」「質」「量」の「三つの性質」があります。》

では今回は「普通の人達」が一番理解し辛い「質」から話していきましょう。この「氣の質」とは「熱と波」で表すことが出来ます。

《「氣」は、その人の「精神の状態」により「冷めて」いれば「水」であり、「暑く」あれば「熱湯」であると共に、「波、波長」としての「性質」も持ちます。》

この「熱」と「波、波長」の性質というのは「表裏」であり、決して「離れた」現状ではなく「自然」の持つ「性質」と同じものでもあります。

例えば「物理学」においても物質の「分子」は「低温度」の「低エネルギー」において「分子」は、あまり「振動」していない状態であり、これを「熱振動」と言いますが、その「振動」がほぼ無くなるのが「絶対零度=-273℃」となります。つまりは「物理的」には「振動=熱」でありそれは「エネルギー」でもあります。

《では「氣」にとっての「波、波長」の「状態」とは、何によって「変化」するのか?と言えば、その時の「精神の状態」だと言えます。》

これは、誰もが想像する通りで、「怒っている時の氣」とは「興奮状態」ですから「波も荒くギザギザと上下しています」。その反対に「心が穏やかな時の氣」とは「柔らかい波の様にゆったりと上下しています」。

そして「悲しい時の氣」とは「小刻みに震える様に振動しており」、「不安や恐怖に駆られてる氣」とは「不規則に安定せず震えています」、又「気が病む」とも言いますが、「肉体が病んでいる時の氣」も「不安や恐怖の氣」と同じく「ワナワナと震えている」のです。

《では「寝ている時」とか「何も考えていない」安定した状態の「氣」とは「どうなのか?」と言いますと、殆ど「波の無い」「ツーーー」とした状態にあります。》

《つまり、人が「起きて」いれば、何がしかの「視覚聴覚」から入る「刺激」を受けては、何かを「思う」訳で、その「思い」自体が「波」であり、それは「空間」を通じて他の人達にも「熱」と同様に「伝場」します。》

これを「人当たり」と表現しているのであり「人当たりの柔らかい人」とか「人当たりの固い人」とか表現していると言う訳です。ですから「ネガティブな人」と「同じ空間」を共有していれば、影響を受けて他の人も何となくは、「ネガティブ」な雰囲気に引きずられるのも当然の事で、

《「その人特有」の「気の波」の「発する癖」こそが、「その人」の「性格」だと言えるのです。》

よく「スピリチュアル」で「エネルギーバンパイヤ」ということを言いますが、これは「気量」に関する「話し」で、その人の「性質」における「ネガティブ」とは「関係の無い」事なのです。「よく考えてみてください!」

《「氣」の「エネルギー」としての「波、波長」の「状態」とは、その時のその人の「精神の状態」により「変化する」のだと言えます。》

そして、

《「寝ている時」とか「何も考えていない」安定した状態の「氣」とは、殆ど「波の無い」「ツーーー」とした安定状態にあります。》

これに比べて、

《「不安や恐怖に駆られてる氣」とは「不規則に安定せず「震えています」》

「これで、分かりますか?」、「寝ている時」とか「何も考えていない」「ツー」とした「安定状態」にあっても、「氣」は「波のエネルギー」ですから「振動」はしている訳です。「不安や恐怖」の「ネガティブ」な精神状態に居る人は「不安や恐怖」という「思い」に陥っているから「不規則な震える波」を発しているのです。

《つまり、どちらも「生きて」いるから「思い」が生じる訳で、その「思い」が「ポジティブ、ネガティブ」であったとしても、それは「波の性質」の問題なのです。》

《よって「思い」が「ネガティブ」であっても「波の質」が「悪い」だけで、「エネルギー」が決して「無い、マイナス」ではなく、人が生きている以上「エネルギー」は「有る」のです。》

ここを「勘違い」したり「混同」する人が多いのです。それが「良い思い」であっても「悪い思い」であっても、それらが「エネルギー、力」として「現存」するからこそ、「周囲の人達」に「影響」を与え、「思い」が「伝場」しているということなのです。そこで、更に一つ、

《「気の強い人」とは、あまり「周囲の人」からの「影響」を「受けません」よね?》

ある意味「わがまま」とか「唯我独尊」「自分勝手」とも捉えられたりしますが、「気の強い人」は「周囲」から仮に「ネガティブ」な「文句」を言われたとしても、殆ど「気に止める」事もなく「平気」ですよね?、

《「気の強い人」とは「気の出力」も強く「気の量」と「循環」においても「旺盛」な「流れ」を保っています。言わば「川幅が広く、水量も多い川」の様なものです。》

《そんな「川」に「ネガティブ」という「真っ黒な墨」を流したとしても「攪拌」され、「川」が「黒く染まる」なんて事はありません。》

《「気の強い人」の「気脈」の「循環」とは「ミキサー」の様なものです。「ネガティブな波」も「ミキサー」で「粉砕」してしまえば「只のエネルギー」にしか過ぎません。》

「気が強い」ということは、その様なことを表しているのです。これが「理解」出来れば、兎にも角にも「気が強く」なって、「損をすることは無い」と言えます。

だから、その為に「ヨーガ」が有り「気功法」が有るのです。

「氣」とは「その人」により「多い、少ない」の「性質」が有ります。その人特有の「スケール感」を「器量、器」が「大きい」とか「小さい」と表現されます。

《「人の器量、器」とは「人のスケール感」であり、その「器」に「盛られる」のが「氣」だということです》

「あなた」が「自信が無く」、「スケール感に乏しい」として、その「器のサイズ」は例えると「コーヒーカップサイズ」だと言えます。その逆で「自信が有り」「大きなスケール感」を持つ人とは「バケツサイズ」だと言えるでしょう。

《「氣」とは「熱力学」にける「エントロピーの法則」と同様に「多い者から少ない者」「強い者から弱い者」に「不可逆的」に「流れ込み」「移行」しようとします。》

それは「気の熱」が「熱い人から冷めた人」へ「気迫」が「強い人から弱い人」に「伝わる」のも「同じこと」だと言えます。

《「類は友を呼ぶ」とは、この「人の器のサイズ」において同じ「スケール感の者」同士が「集う」という「性質」の「側面」を持ちます。》

よって「あなた」が「コーヒーカップサイズ」の場合、「気の合う、お友達」も大抵同じ「コーヒーカップサイズ」だったりする訳ですが、その場合「氣=コーヒー」が「多い方から少ない方」に「スプーンで一杯」とか「移行」する事になるのです。

《「あなた」の数多くの「お友達」においても「この人と会うと元気になる」とか「この人と会うと疲れる」とか有る筈ですが、それも「あなた」がその人と会う事により「氣=コーヒー」の「量」が「増減する」から、その様な「現象」が起こるのです。》

ですから、中には当然「器的」にも「小さなコーヒーカップ」で「中身」の「コーヒの量的」にも「精神、肉体」が「弱く」「不健康」な場合、この「氣=コーヒー量」も日常的に「少ない人」もおられる訳で、その様な人と「会えば」必ず「氣」を「グングン」と「吸い込み」ますから、その様な人を「エネルギーバンパイヤ」と言うのです。

「他の人に頼りがち」「他の人に依存しがち」な「他人任せ」な人も「同じ性質」だと言えます。「気の強い、器量の大きい人」とは「バケツサイズ」だと言いましたが、そんな人は「バケツサイズ」の中に「大量のコーヒー」を蓄えているのと同じことです。ですから、「コーヒーカップサイズ」の人に会ったとして、そこで「スプーンで数杯のコーヒー」を持っていかれたとしても「量的にも重さ的」にも「大した影響」を受けることはありませんよね、そういうことです。

これは「重さの側面」からも言えることで「バケツサイズ」まで「重い」とあまり「揺れる」事もありません。これは「精神が動揺しない」のと同じことです。また逆に「コーヒーカップサイズ」だと「軽い」訳ですから、「ちょっとした物事」で「動揺」して「右往左往」してしまうのも「理屈的」にご納得して頂けることなのですよ。

では、後半の「まとめ」に移って参りましょう。

「あなたの器」が未だ小さく「コーヒーカップサイズ」だったとして、

《どうすれば「器量が大きく」「氣が強く」なれるのでしょうか?》

《その「答え」とは「三つ」存在します。つまり「人の器」とは、予め「決まっている」訳ではなく、その人次第で後から「器のふち」を「継ぎ足して」大きく出来るように出来ているのです。》

《その「一つ目」とは「経験」です。》「経営者」でも「リーダー」にでもなって、どんどん「苦労」して、「修羅場を潜り抜ける」事です。当たり前ですが、そうして「修羅場を潜り抜け」れば「困難」や「緊急時」の「潜り抜けノウハウ」は、あなたの中に「積み重なり」その「ノウハウ」は「あなた」に絶大な「自信」を与える事になるでしょうから、それに伴い「あなたの器」はとても「大きく」なるでしょう。「そんなの無理無理!」

《そうでしょうね、誰もがそんな「運命」を「背負える」訳ではありませんよね。》

《「二つ目」は使える「知恵」を沢山「得る」ことです。》

これは「闇雲」に「本を読んで」使えない「知識」を蓄えるのとは違います。沢山「知識」があったとしても、その大半は実際の「仕事」や「生活」「人生」には「役立ちません」

《「仕事」や「生活」「人生」に「役立つ知識」にする為には「あなた」にとって「活きる」「興味のある知識」から集める必要があり、それにより「優れた発想」を得る必要があります。「優れた発想」をするためには「体系知」が必要となります。》

つまりは「優れた発想」を呼ぶ「活きた知識」という事です。でないと「意味」がありません。「これも無理無理!」ですか、

《ならば「三つ目」は正しい流派で「ヨーガ」か「気功」の「修行」に勤しむ事です。》

《そもそも正しい「インドのヨーガ」や「中国の気功、練功法」とは、「人のテクニック、技術」として「人工的」に「気力を増大」させ、「器量」を大きくする為に作られた「技術」であり、「カリキュラム」なのです。》

その為には「気脈の詰まりを取り」「チャクラを稼動可能にさせ」「チャクラを動かし」「氣をコントロールする為の基本呼吸法」の数々を「マスター」する必要がある訳です。でも、そこで、何故「正しいヨーガ」や「気功法」と言う「注釈」が付くのか?と言えば、町の「ヨーガ教室」や普通の「気功教室」等では「呼吸法」を含めて、あらゆる「技術」が「失伝」している訳で、なかなか「本物を探す」のは難しく、そこは「縁一つ」となります。

「正しい直伝」の「流派」でないと、それらは「守られ」「伝えられていない」ということなのです。

そうして、何かの「足りないという不満」を持ち、「正しい」ものを日々探した人達が、最終的に「氣塾」を見つけて来られるです。

ここまで、読んで頂ければお分かりだと思いますが、

《「氣」とは当たり前に「誰にでも有るもの」だと言えます》

決して、我々の様に特別に「修練」を重ねた者だけが持てるものでもなく「その気」になれば「扱える」ものなのです。

ただ「普通の人達」と比べて、我々が「どう違うのか?」と聞かれると《普通の人達は「氣」を「扱おうと」していない》と言うことになります。

《「氣」とは「気持ち」、すなわち「気の持ち様」を表します》

《「普通の人達」は「気持ち」は「自分の精神の状態」なのにも関わらず、「気が荒らがって、怒ろうが」「気が震えて悲しかろうが」「気が弾んで楽しかろうが」全ては「成るがまま」に任せて、「放ったらかし」の状態に任せているのです》

つまりは「自分の気持ち」に「振り回されている」のに「平気」でいるのです。でも、そのせいで日頃から「不安、恐れ」におののいているのですから、それも当然だと言えます。

《我々「行者」から言えば、それは「だらしのない」事だと言えます。》

《「行の進み」とは、「乗馬、馬術」と同じ様なものです。》

「あなたの精神」とは「暴れ馬」と同じです。その「暴れ馬」をどの様にすれば、「あなた」の「言うこと」を聴いてくれる様になるのでしょうか?。先ずは日頃から「世話」をして「馴染む」事から始めるでしょう。「餌をあげて」「健康状態を観て」「蹄や毛並みを整えて」「世話」をすれば徐々に「馴染んで」いくでしょう。《そして「命令」するのです。》

馬の好きに「放置」するのではなく、「歩け、走れ」「右に曲がれ、左に曲がれ」と「根気良く」「命令」をしていかなければいけません。《そうして、初めて「人馬一体」と成るのです。》そうして「あなたの精神」も「あなたの言うこと」を「聴いてくれる」様になるのです。

「怒って」「泣いて」「恐れて」「笑って」「楽しんで」そんな「右往左往」する「あなた」の「行ない」はとても「人間的」とは言えますけど、そんなに「大きく」感情を「動かして」いる時は「他の正しい物事」も「見えなく」なっている筈なのです。だから「正しい判断」もできなくなっている筈です。

《「感情」とは「揺れる」「弾む」「震える」等の「精神=氣」の「動き」の現れです。》

《それらを「コントロール」できれば、どの様な事が「可能」になると思いますか?》

「困難を楽しんで乗り切れる」「災難をチャンスに変える」「悲しみも笑いに変える」色々な事が「可能」になります。

《それが「氣塾」の「教える技術」です。》

「何となく」や「フワッとした」誤魔化しめいたものでは

なく、それは「太古」から「厳然」とした「技術」として

「存在」しているのです。

《「氣塾」で「確かめて」くださいね。》