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「魂の設計図の解読」と「占い」「リーディング」の違い

狭義においては「人」には「宿命」というものと「運命」というものが有ります。

「宿命」とは「人生の転機」に関わる「大きな」もので、例えば「結婚相手」や「親子」「姉妹」「兄弟」又は「人生」において、強い影響を及ぼす「相手」の様に、前もって「あの世」での「約束」において「決まっている」もので、基本的には「変更不可能」なものです。
それに対して「運命」とは「バイオリズム」の様に「毎週、毎日、また一日の時間」によっても絶えず「変化」をしているもので「運気」を司っているものです。これを「前提」にすると「宿命」とは「他の魂」との「今世」で織り成す「物語り」の「シナリオ」ということになります。

その「シナリオ」の「約束」と実際の行動を「間違えない」為に「魂」の中には、あらかじめ「設計図」というものが、前もって「組み込まれて」います。しかし「人」とはその「運命」に「荒波」が生じた際、「動揺」して「右往左往」する訳で、自分の「選択」した「行動」が「間違って」いるか?いないか?を「測る」為に、人はしばしば「胸に手を当てて考える」ということをするのです。

それぞれの「人」が「他の魂」達と様々な「シチュエーション」の中で行うべき「役割り」というものがあり、互いに、それぞれの「人生」に「関与」し合うのですが一番大事なことは《「今」の「あなた」がどおいう「状態」に在るのか?》ということです。なぜなら、今の「あなた」が居るということは、今の「あなた」を作る為に「これまでの人生があった。」ということです。

ということは「これからの人生」は、「あなた」がこれから「仕込んで」「切り開いて」いくべきものなのです。これまでの人生が「あなた」の「選択」に
よって「造られた」ように、あなたが「約束」に沿って「仕込んで」いかなければ、いけないのです。

今の「あなた」の「人生」は、これ迄の「あなた」の「選択」の繰り返しによって「造られてきた」ものです。

そして、これからの「あなた」の「人生」は「あなた」が「仕込んで」造っていくべきものなのです。

「占い」が好きな方々は多いと思います。「命、卜、相」や「占い師」による「質」の違いは有ると思いますが、基本的に「占い」とは「あなた」自身の「産まれ」や「名前」等を持つ人々は「この様な、人が多い」という「経験的」な「統計学」に近いものです。もう一方の「リーディング」は「あなた」の「ハイヤーセルフ」または「守護霊」等からの霊的な「啓示」を受けようと、するものですが、その「望む」べき「ターゲットの霊」と繋げれる「確証」は薄いのが実際です。これらには「確度」の問題から言える事として、「占い」なり「リーディング」なりしてもらったからといって、《皆さんが実際の「行動」を「変える事」は「ほとんど無い」》という事があります。

何故かと言えば、その「答え」が実際の「日常」から「遠い」からです。ここが「魂の設計図」との大きな違いとなります。「運命の傾向」とか「お告げ」ではなく、人生の「転機」となる具体的な「あなた」のとるべき「行動」や「言動」こそが、あなたの「魂の設計図」に書かれている訳で、それを「あなた」から直接「読みとる」のが「魂の設計図の解読」なのです。ですから「転機」が近ければ、近い程「細かく」「具体的」なものになるのです。それは「誰か」に「運命」を「変えてもらう」のではなく、「あなた自身」が「理解」して「変える」のが「あなた」の「大切」な「人生」だからです。

「未来」というものは、単純に「過去」からの「延長線上」と言う訳ではなく「あなた次第」でいかようにも「変化」します。誰かに「導いて」もらう、という「受け身」ではなく、「積極的」に「あなた」が「関与」しなければ、ならないものなのです。

「それは、そうでしょう?」

「そおいうものなのです!」

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「あなた」は「何を」、欲しいのですか?

「氣塾」で「学び」「体得」出来る物事は「古代インド」 そして「中国」に古くから伝わる「気力のヨーガ」と 「練功法」の「粋」を集めた「古式マスターヨーガ」と 「武当派太極内丹法」の「技術」、そして「哲学」を含めた、「この世、あの世」に関わるあらゆる「知識」です。

「氣塾」には、様々な方々が来られます。「精神」や「身体」が「病んで」いて、「普通」の人達より「マイナス」におちいっている人達から、「普通」の状態から「仕事面」や「起業」の為に、更に「精神力」を「強化」したい人、「武術」や「スポーツ」をやっておられて、「氣」という ものを「知りたい」「体得」したい人まで、様々です。
どの様な「ニーズ」の方々が「氣塾」に来られたとしても、「気力=精神力」の「強化」は「必須」で「共通」しています。
よって「氣塾」での「初頭過程」も「共通」していて 《「精神」の「基礎体力」》を「人並み以上」まで持っていく為の「技術」を、しっかりと「習得」「練習」してもらい、「精神力」を「強化」する為の「諸条件」を整えてもらいます。 皆さん方も、日々いろんな人達と「接して」られて、感じて いることは「正解」でして、人の「器量」とは「気量」ですし「気量」が「大きい」人とは「気力」を「大きく」持つ人です。その人は様々な「困難」を乗り越えた「経験」により、そのような「気量」を蓄えたのでしょうが、これを「技術」によって「人工的」に「強化」する「手法」こそが「氣塾」で教える「技術」なのです。

そして「初頭過程」で揃えなければいけない「諸条件」とは
・全ての「大人」が持つ「気脈の詰まり」を「除去」する
・「気脈」の「結節=グランディ」を「除去」して、 スムーズな「氣」の流れを確保する
・使わなくて「錆び付いた」、「氣」の「発電機」である 「チャクラ」を使用可能にする
・「チャクラ」を回し「気力」を発生させる為の「呼吸法」 を体得する
・作った「氣」を「コントロール」する為の「調息法」を を体得する
ということになります。

これらは「初頭過程」であり、どの様な方々でも「氣」を「強化」して「流れ」を「円滑」にする為の「必須条件」となり、ここからその「人」の欲する「能力」により「細分化」していくのです。

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「修行」とは、どの様なものなのか?

あらゆる「修行法」とは「技術」です。

よくドキュメンタリー等で《◯◯で養った「技術」が、後々に活きる事になる》という表現がありますが、「人」とは本来「心身」において「得意」なことが有れば、「苦手」なこともある、「大変、偏った生き物」なのです。「修行」の本質とは、その「人」それぞれに持つ「苦手」で「凹んだ」部分を「補い」完成に近づける「補完」を第一義としています。

それを「技術的」に成せるのが「修行」なのです。

そして、どの「人」の「心」の中にも、影のような「陰」もあれば、日向のような「陽」もあります。「明るく」「元気」なだけでは「熟慮」が足りず「挫折」を呼び、「考えて」ばかりいて、ろくに行動に移せないようでは、折角与えられた「命」の「時間」は「無駄」になるばかりです。

私も、昔はかなり「偏り」のある人間であったのですが、このように「足りない」「両極」にある部分を「補う」ことにより、その「人」は「円満」になれるのです。

一般の方々は「修行」と言いますと「苦行」「難行」そして「荒行」を「連想」されると思いますが、実際には「日々のコツコツ」と「継続力」が最も「物を言います」。

私なぞは「仕事」ではあっても、1日に10時間に及ぶ「呼吸法」や「練功」をしているのですから、誰よりも強力であっても不思議は無いでしょう。それ程に「日々のコツコツ」とは「重要」なのです。要はそれをいかに「苦」にならない様に「継続」出来るのか?の「問題」であり。

その「コツ」とは、実際の《自分の「人生」に「活かす」》ことに尽きるのです。どの様な「技術」を「体得」したとしても、自分の人生において「活かさ」なければ「意味」は無いのです。逆に、自分の人生の「一場面」であってもその「体得」した「技術」が「活かされれば」、あなたは心底「良かったー!」と思えるでしょう。

「氣塾」で教える「技術」の「真髄」とは、自分の「人生」に「活かす」為のものであり、私はそこを最も「重要視」して、皆さんに「伝えよう」と思っています。

「氣塾」代表 木村丈彦

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「この世」の「現象化」の真実

さて、最近、弟子に教えていっている、物事の中で、「自己コントロール」。その中でも特に「自己制御」を教えていっているのですが、これがなかなかに「難しい!」

これが出来ないと、以前に言った「内三合」やら、いわゆる、物事の「現象化」「引き寄せ」「願望実現」これら全てにおいて「現象化」は、難しいと言っても過言ではありません。

で、その鍵を握るのが「自己制御」。その中の「自己抑制」と「自己増幅」が鍵です。
これは「魂の設計図」の「約束」にも大きく関わる物事になります。

この物事、究極は「両極端」に存在していて、その時々に応じて、その「両極端」を使い分ける必要があるのですが、例えば、一例を出しますと、、

大多数の物事、現象を大きく緩やかに動かすには「自己抑制」

少数の物事、現象に特化して鋭く動かすには「自己増幅」

この物事を、現実に動かす際に、まず、大きく、大多数の物事に対しては、「将棋の駒になって考えるのじゃ無くて、盤面を上から見る目を養いなさい」

と言っています。これは、組織など、多数の人間が絡んで物事が進む場合、情報や命令の伝達、進み方により、多数のシナリオが「可能性」として、進行していく訳で、その幾つかのシナリオの可能性を「感」により、読み取り、最善の策を一つ一つ、打つ必要があります。

この場合、操作する側は「個や我」を出す必要性は、無く、逆に「個や我」に抑制を掛けた方が、狙い通りの現象を生み出す確率は高くなります。
更には現場把握の為の情報を集める為には、「我」を出して言うよりも、聞く側にまわる方が、より、効率的に全ての理解が進み、掌握が可能になります。
掌握が出来れば、大多数に対しての、現象化は確実性を帯びて行きます。
「言うよりも、聞く側にまわれ!」って事ですね。

今度は、逆に、特定の人や物事に特化して現象を引き出したい場合、物事が特定しているのですから、ある意味「難儀」です。リアルに他の人を説得したり、変えたり、自分の周りに密接した、現象を変えて行く、これは、場合によっては、大多数の物事を「現象化」させるよりも、難事業だったりします。

これに、対しては、既に何度かこのブログでも言及しているとおり、「意を決めて、極端に(尖らせる!)」「これに、勝るものなし!」と言えます。

この(尖らせる)という事に対して「どの程度?」とか「どのくらい?」という質問を多々頂きますが、その答えは「他の選択肢を持たない程」っていうことです。周りを全て「崖」にする、とも言えます。

例えとしては、今月の生活費やカード、免許証全てが入った「お財布」を落とした場合、「ヤバイ!絶対に出てこないなんて、あり得ない!!」って心境になるでしょ?それです。そこまで瞬時に本気で思いを詰めたら、大概出てくるもので、まさに、「他の選択肢は、ナシ!」と言えますし、そこまでの思いで、他の人に当たる事が出来た時、思いが成就する確率は、飛躍的に高くなり、ミラクルを生む事さえ可能になります。

これらは、全て、スピードとタイミングのコントロールも必要となりますが、何より先に「意」から出る、現象化の要、「個と我」を「抑制したり増幅させたり」する事こそが重要で、このことを本当に理解出来て、実践出来るようになれると、あらゆる現象は、それに関わる人や人々の「精神力」のベクトルによって成り立っている事が理解できます。

《そう、 人の「精神力」のベクトルと力強さこそ、世の全ての「現象化」の鍵を握ります。》

多勢の人々のベクトルが、一つの方向に「束なった」時、緩やかでも、それは「流行り」や「時流」を生み出し、「現象化」を作り出していきます。
また、それが仮に、ひとりのベクトルであったとしても、それが「尖らせて」最も強力な意思の方向を示せた時に「現象化」は、かなりの高い確率で起こす事が出来るのです。

これらの事実は、マスターヨーガや内丹法に限らず、数千年前の古来から、その時代の挑戦者達によって、人生を掛けて、開発され続けてきた、本当の「帝王学」の一部です。 似たような形を持つものは、他の国にも必ず存在しています。

その時代の挑戦者が、限られた、たった80年か90年かの人の一生の寿命の間に、「いったい、どこ迄出来る事が可能なのか?」、時間と正面を向いて戦った「知恵の結晶」なのだと、思います。

これらの法則をあらゆる手法で体得してしまった人達は、はた目から見たら、目まぐるしいスピードて事をなし得て行くので「乗りに乗ってる!」とか「ラッキー!」みたいに「偶然的」に映るでしょうが、違うのです。

周りを全て「崖」にして、逃げ道を排除して、他の選択肢を無くし「やるしかない」状態をワザと作り出して、「一点突破の集中力」を作り出して、事に望む。

冷静にタイミングを計り「現象化」の中で「時間の流れ」に「圧縮」を掛けていく。

こうして、その人の背負う「約束」を名し得て行く。

《全ては「精神力」のたまもの》なんですよ!

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