気脈について

「気脈」とは
「氣」の流れる通り道を中国では「気脈」と言います。方や、インドではサンスクリット語で「ナーディ」と呼ばれています。全気脈の総称として「内丹」では、「正経、奇経 八脈」と称します。
ここからは、「ヨーガ」と「内丹法」両方の要素を含めて「解説」しますと、胴体の前後を流れる主経管前正中線を「任脈=ウマ」、後正中線を「督脈=アバドゥーティ」それらを螺旋状につなぐ左右管を「キャンマ、ロマ」この左右管は「帯脈」に通じます。また「内丹」では頭部の主経管を「衝脈」と呼びます。
「気脈」はこれらの「主経管」から体表に向かって、「毛細血管状」に無数に伸びており、7000本有ると言われています。
また「氣」の発生器である、7つの「チャクラ」は、この「任脈」の上に存在し、縦の「任脈」から「T字」に前に出た「管」の中に「円錐状」に収まっており、「気脈」内の「氣」の「圧力」が加わる事により、「風車」の様に「回り」、「氣」を発生させ、身体の内と外に「循環」を形成しています。
「マスターヨーガ」や「内丹法」の「技法」は「氣」の圧力を上げ、「内圧」により、「気脈」を「広げ」、大量の「氣」を扱う事を可能にするのです。

「気脈の詰まり」とは
「気脈の詰まり」に関してもインドと中国、ほぼ同じ考えとえ認識を持っています。基本的に「大人」の「気脈」は「詰まって」おり、逆に幼少期の子供の「気脈」は「詰まっていません」。
何故でしょう?
そもそも「あの世」において使っている「氣」を「先天の氣」と言います。一切の「苦」や「疑い」の無い、「純粋、無垢」な本気しか無い「陽の氣」です。これを持って我々は「この世」に降りて生まれ出るのです。この「先天の氣」は胎児や、幼少期において、母親の存在無くしては誰もが生きていけませんから、母親の「健康を守る」為に役立っており、幼少期には大量に「発散」しています。
やがて、4~5歳頃より「自我」が芽生え「記憶」が発生します。「記憶」というものは、例えば、「お父さん、お母さんに○○してもらった」または、「お父さん、お母さんに○○された」という様に、「自己基点」の「記憶」ですから「エゴ」なのです。
「気脈」はこの「エゴ=自我」により徐々に詰まります。
大きくなるにつれて「詰まり」は増えてしまいますので、「子供同士」の純粋な「循環」や、子供特有の「不可思議」な感覚は失われていき、「言葉」が上手になるのと、引き換えに「特殊感覚」は鈍り、無条件に信じる事を辞め、世の全てに「疑い」を持つようになります。
男女の差が生まれる頃には「先天の氣」は失われ、それと引き換えに「後天の氣」すなわち「陰の氣」を使うようになるのですが、この「疑い」も含めて、「詰まる」ことが必要なのは「この世」は「善悪混合」であり、必ずしも正しい事が通るとは限らない「不条理」もある世界です。
「疑う」ことを知らない「純粋、無垢」な精神のままでは「魂」が「ギズついて」しまいます。ですから「気脈」の「詰まり」とは不浄な「大人の社会」に出る為の「準備」でもある訳なのです。

大人から中年になるに連れて増える「詰まり」は、60代にもなると、かなりの量になります。これにより「決めつけ」や「わだかまり」等の「エゴ的」な要素は最大になるのですが、70代、80代にもなると「体力」の「衰え」から、あらゆる「反省」や「懺悔」「悔い改める」心情が浮かんできます。信仰にもある通り、これらの人が丸くなる「心持ち」は「心身の浄化」を促し、再び「気脈」の流れを「再生」します。また「純粋、無垢」な「心持ち」を得て、お年寄りは言葉の通り「子供に戻る」のです。