「呼吸法」を身に付けると「無敵」になる理由
《「氣塾」は「陰の氣」を養生する「古代インド」に伝わる「古式マスターヨーガ」と「陽の氣」を養生する「古代中国」に伝わる「武当派太極内丹法」を「伝授」する為に作られた「塾」です。》
我々「氣塾の行者」は「氣」を生成し「練り」「操る」為に、様々な「呼吸法」や「練功法」を使用します。
「練功法」に関しては「秘伝」の側面と制約があり、この場では「お話し」は軽々には出来ませんが、
《今回は、何故、古来から「呼吸法」により「無敵」になれる、と言われるのか?》に付いて、その「効能」と「必要性」を「基礎的」なものから「解説」したいと思います。
先ず、何より我々《「氣塾の行者」は「呼吸法」により「氣」を「強力」に生成します。》
《我々は「呼吸法」により、自らの「精神」を「コントロール」し、「呼吸法」により正しく「瞑想」をして、「呼吸法」により必要な「勘」を養います。》
《「呼吸法」は「元気」である為の「氣」を養う。》
この「呼吸法」により、生成される「氣」は「段階的」にですが《「最初期」においては「元気を作る」為に使用されます。》それは「健康の維持」や「あらゆる厄災」から「身を守る」為にも使われます。
「氣の持ちよう」を「気持ち」と言いますが「気持ち」とは「精神」そのものであり、我々の「肉体」と繋がる「切り離せない」ものです。
《仮に「あなた」がいくら「肉体的」に「健康」であっても「精神」が「落ち込み」「凹んで」しまっていたら、何の「行動」をする事も出来ません。》
また、逆に、いくら「精神的」に「乗り気」であっても「肉体的」に「病気」であれば、これも「何も出来ない」訳で、やはり「表裏」であり「別」ではないのです。
我々は、この《「表裏」の「バランス」を良く「保つ」》ことを「欠かしては」いけない訳ですが、時間に追われる「現代」においては「心身のどちらか」が「忘れがち」になってしまう事が多いのです。「気が強い」「気が弱い」とよく言いますが、誰もが何かを「達成」したいのであれば、「気が弱い」ままでは、何も成し得ないのです。
それも「個性」ではありますが、厳しい「現実社会」では「気が弱い」ままで、何も良いことは無いのですから、何をするにも「気を強く持つ」ことから「始めるべき」なのです。
「どのような人」においても「心身共の 健康」が!一番大切なのですよね。
《「呼吸法」は「日々のコツコツ」「継続力」を養う》
《我々は何かを「積み重ね」なければ「何者にも」成れません。》
「積み重ねる」ことは「何年もの継続」を意味します。
「何年もの継続」とは「日々のコツコツ」により「成り立ち」ます。よって《「日々のコツコツ」に「敵うもの」無し。》となるのです。「武術」も「茶道」も「華道」も「経営」も「仕事」も全てが「日々のコツコツ」により成り立っています。「継続は力なり」ですが「継続出来ない者には力は無し」です。「飽き性」だろうが「移り気」だろうがそれは「言い訳」にしか過ぎません。全ては「結果」にて示されるのが「世の中」です。そうこういう「あなた」にしても「継続している人」しか「信用しない」訳ですからそうなのです。
そうであっても「日々のコツコツ」とは、誰にとっても「難儀」なものです。「邪魔くさい」でしょうし、中々「時間」が取れないかも知れません。ならばどうすればこの「能力」を「体得」する事が出来るのか?となります。
《この「能力」を「胆力」と言います。》
「胆力」とは、一般的には「驚いたり」「恐れたり」しない「肝っ玉」であり「度胸」とも言われますが、《その実は「折れない心」「めげない心」であり、「初心」を貫く「貫徹力」なのです。》
つまりは「人の芯」を司ります。この「芯」がしっかりと「固まって」いるから、安易に「恐れたり」「揺れる」事が「無くなる」のです。
これを「養生」するには「二つの方法」が有ります。
《「一つ」は沢山の「修羅場」を何十年も掛けて、くぐり抜けること、「二つ目」は、それを「技術、体術」として生成する「呼吸法」により「養生」すること》となります。
全てを「当たり前」「習慣化」する、というのは「表面的」なことに過ぎません。だから「殆どの人達」が「継続」出来ないのです。
《この「胆力」とは「二番チャクラ」の「丹田」に宿ります。》
この「丹田」を正確に「作動」「コントロール」するのは「呼吸法」の他には有りません。
私の日々の「ブログ」は、既に「約1500本」程になりますが、その「継続力の源」となるのは「胆力」であり、それを「支える」のが「日々の呼吸法」なのです。
そういう私も、元々はそこまで「強く」はなかった訳ですから、本当に「呼吸法」とは「ありがたい」ものなのです。
《「呼吸法」により「強化」される「氣」は、煩わしく、難儀な「人間関係」に効きます。》
「お仕事」において「人間関係」とは「避けて」通れない「問題」です。これは非常に「煩わしく」「難儀」な「問題」です。
《何故、そもそも「人間関係」という「問題」が発生するのか?といえば、それぞれの「人」が「違う思惑」を持って「生きて」いるからです。》
「会社」とは「形を成さない」人の集まりと言えますが、「人」が複数「集まれば」少なからず「マウンティング」が行われます。人は「マウンティング」により「優劣」を決めようとします。そして「マウンティング」により「相互的」に理解した「優劣」を基にして「命令の流れ」「指揮系統」を必ず「確定」しようとするのです。
まあ、「組織」においてはこの「流れ」は、ある意味「合理的」でもあります。
《まあ、以前であれば「能力の優劣」よりも「先輩後輩」「年功序列」等の「人生の経験値」に対する「期待」が「命令系統」の「確定」に対して「幅を利かせて 」いた訳です。》
《でも、よく考えて頂ければ分かる通り、現実的な「意思決定」では個人の能力、特に「押しの強さ」「意志力」がそれに「勝る」場合が多々有るのです。》
《そして「人」はどうしても「意志力の強い」「押しの強い」人の意見に「なびいて」従ってしまうのです。》
つまり、人と人とは絶えず「意志力の押し合い」をしており、「意志力の弱い人」の「意見」はおざなりにされ、「意志力の強い」「気の強い」人の意見が「通る」ように出来ているのです。
《そこで「あなた」は、いつまでも「気の弱い」「従う側」に居たいのですか?となります。》
《「意志力の弱い」「気の弱い」あなたの「精神」を「技術的」に「強く」してくれるのが「呼吸法」なのです。》
これは「自己啓発」や「言い聞かせる」ような「おまじない」ではなく、あくまで「技術」であり、「体術」なのです。
《この独特な専用の「呼吸法」により「気力=精神力」を「強化」させるのが「ヨーガ」や「内丹法」等の「気功法」「練功法」の「技術」なのです。》
「気の弱い」あなたの「心持ち」が「強く」なれば、「人間関係」の全てが「変わります」。「あなた」の「立ち振る舞い」が変われば、「周囲の人達」も
「あなた」の「意見」を聞かなくてはならなくなるからです。そうして誰もが「変わって」行きます。
《「あなた」が「変われば」全てが「変わる」》
《「あなた」が「正しい」と「主張したい」のななら「強く」なりなさい。》
それを「呼吸法」により「確かめて」みてください。
《正しい「瞑想」を行なう為には「呼吸法」は「必要不可欠」となります。》
まずは「瞑想とは何ぞ?」です。
「広義」での「瞑想」とは「心を静め」「何かに心を集中させたり」単に「落ち着くこと」と「解釈」されたりしますが、「ヨーガ」「気功」の「専門機関」である「氣塾」においては、「意識」を「静める」所から始まり、
《「寝る」直前の「変性意識」にて「6番チャクラ」を使用して「 全感覚」を研ぎ澄ませ「覚醒」させる行為を「瞑想」。》
《「変性意識」より少し高い「意識」を「維持」させて「7番チャクラ」を使用して「思考集中力」により「この世の諸法則」を得て、「気付き」「閃き」「悟り」を得る行為を「禅定」。》
として明確に分けて、個別に「マスター」していきます。
つまり「6番チャクラ」と「7番チャクラ」では、使用する「専門分野」が当初においては「別れる」為です。
これを「一般の方々」は「一緒くた」に「混同」してしまうから、正しく「瞑想」が出来ず、「瞑想」自体が何のことやら「分からない」状態に終始するのです。
それでも「近年」において「瞑想」という「行法」は広く「注目」される様になりました。
「スティーブ・ジョブズ」「ビル・ゲイツ」「稲盛和夫」「ビル・クリントン」「アル・ゴア」「鈴木イチロー」「長谷部誠」といった名だたる新旧の「トップリーダー」「トップアスリート達」が、進んで「禅」や「瞑想」を「取り入れる」事によって、「プロの仕事」に「活かして」いる、という証言をしている為です。
《では、いったい彼らは何の為に「禅」や「瞑想」を「仕事」に「取り入れている」のでしょうか?》
《それは「極端」な「集中力」を養うためです。》
《「集中力」を育てる事は、感覚的な「直感」「勘」を育てる事につながり、自分と周囲を含めた「気配」の「良し悪し」を「察知」する事が出来るようになります》
本質的に「経営者」や「アスリート」は「その場その時」に賭ける「勝負師」です。全ての「タイミング」が場を支配し、その時の「自分の調子」は大きくその後の「結果」を「左右」します。つまりは「やってみないと結果が分からない事」に「全てを賭ける」のです。
そんな時、過去の「データ」も「分析」や「周囲の助言」もあまり役には立ちません。
《「役に立つ」「信じられる」のは、自らの「現場」「ライブ」での「閃き」や「気づき」そして「悟り」だけとなるのです。》
それらを「引き出せる」のが「禅」であり「瞑想」ということなのです。でも、それらを「正確」に「作動」させられるのは、「呼吸法」による「意識コントロール」しか無いのです。
《何故、正しい「瞑想」「禅」には「呼吸法」が「必要不可欠」なのか?》
《それは正しい「瞑想」「禅」という「行為」自体が「意識の高さ」により「成り立つ」からです。》
我々の普段の「起きている時」の「意識の高さ」を「レベル10」とします。そして「寝ている時」の「意識の高さ」を「レベル0」としましょう。
「レベル10」の起きている時の「意識の高さ」とは目の前で「変化」する「対象」や「景色」を絶えず「追いかけ」て「視覚」や「聴覚」等により「異常がないか?」を絶えず「確かめて」は「何かを思う」絶えず「移り動く、意識」で、言わば「雑念だらけの意識」だと言えます。そして「寝ている時の意識」とは「レベル0」ですから「何も無い」のですね。
《これらを「前提」としたとき、正しい「瞑想」の「意識レベル」とは「レベル1~2」、つまり「寝る直前」にある「変性意識レベル」を使用しています》
更にこの「変性意識レベル」とは「各個人」によって「レベル1.5」とか「1.3」とか、「ベストポイント」には「個人差」が有るのです。
《これを「通常意識」の「レベル10」から徐々に「降ろして」行けるのが、唯一「呼吸法」だという訳なのです。》
《「呼吸法」には、様々な「種類」が有り「意識を上げる」ものも有れば「意識を下げる」ものも有り、それらを「調息法」と呼び、我々はその「調息法」により「意識の高さ」を「微調整」しているのです》
更には「禅」には「禅」の為の「それ用の意識レベル」が存在します。
《「禅」とはあらゆる物事に対して「何ぞ?」という「本質」を求める「行為」です。》
それは「この世の中とは何ぞ?」に始まり「自分とは何ぞ?」「人とは何ぞ?」いわゆる「この世学」と「人間学」の「答え」を「上から頂く」行為だとも言えます。だから「答えが、上から降りてきた」とも言うのです。それらは「閃き」であり「気づき」「悟り」でもあります。
《よって「瞑想の意識レベル」、ボーッとして「感覚」を「解放」「覚醒」させる「意識レベル」より「高い」「思考が可能」な「意識レベル」、「レベル3~4」が「禅」に適した「意識の高さ」となります。》
また、こちらにも「意識」の「ベストポイント」というものが有り、それを「調節」するのも、また「呼吸法」となるのです。
あらゆる「道」の「プロ」や「求道者」が、最終的にこの「世の中」に存在する「数多の法則」を「哲学的」に「理解」出来る、また、そうする「必要」が有るのは全て「禅」による「智慧の獲得」であり、それを成すのが「呼吸法」だ、ということなのですよ。
「何となく、分かりますか?」
《何故、古来から「呼吸法」により「無敵」に成れると言われるのか?》
まず、何より我々は「肉体」「精神」が共に「元気」でないと、何もできません。
《「呼吸法」は「元気」である為の「氣」を養います》
我々は、何かを「積み重ね」なければ「何者」にも成れません。
《「呼吸法」は「日々のコツコツ」と「継続力」を養います。》
日々の生活において「人間関係」は「避けて」通れないものですが、それらは「気の強さ」が「鍵」となります。
《「呼吸法」により「強化」される「氣」は、煩わしく、難儀な「人間関係」に効きます。》
近年、自己の「精神のコントロール法」として「瞑想」が広く「注目」を集めているのですが、それは単に「落ち着くこと」だけではありません。不正確です。
《正しい「瞑想」を行なう為には「呼吸法」は「必要不可欠」となります。》
我々「ヨーガ行者」「練功法行者」は様々な「呼吸法」を使用して「自らの精神をコントロール」し、「呼吸法」により「瞑想」し、「呼吸法」により「気力」を「強力」に発生させて、我が身を守ります。
《そして、何より「呼吸法」により「養生」される「氣」は「勘」「直感」の元となります。》
我々は、日々、あらゆる物事を「選択」して「生きて」います。それらの大半は、本来「やってみないと分からない」物事だと言えます。ですから、それらを保守的「無難に」こなそうが「挑戦的に」こなそうが、《全ては「あなた」の「その時の予感」と「直感」により「選んで」いるのです。》
《「呼吸法」により身に着く「氣」を「読み取れる」様に成れば、あらゆる「自分」と「周囲」の「気配」を「理解」出来るようにもなります。》
あらゆる物事に「絶対」は無く、あらゆる「物事」が「やってみないと分からない」以上この「全ての選択」に使われる「直感、勘」を「鋭くする」という事は、どなたの「日常」にも「有益」ですし、《特に日々「やってみないと分からない」物事を「職業的」に「選択」している「経営者」の方々には「不可欠」となります。》
つまり「あらゆる人」にとって「勘」とは「重要」なのです。「鋭い勘」こそが「あなた」の「人生」を「左右する」と言っても過言ではありません。
だからこそ、人の文明が発生した「太古」から、「古代インド」や「古代中国」では「呼吸法」は「研究」を重ねられてきました。
それらは、あまりにも「アナログ」ではありますが、「複雑」で「生き難い」「ストレス」だらけの「現代社会」においては、返って「最先端の技術」になり得ると思います。「太古」でも「現代」でも「社会」が有る以上、「人の悩み」とは「何時も同じ」だったのです。何時も「人は同じ」なのです。
《これからは「アナログ」こそが「最先端」の時代です》